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観光都市、門司港をめぐる対話


観光都市、門司港をめぐる対話 6月18日に開催されたトニカトラベル@門司港を終えて今回のツアー案内をしていただいた小島邦裕さんにインタビューを行いました。

【穴井】 まず今回は「デザイン」という切り口で門司港エリアを紹介していただきました。 デザインと門司港というキーワードでどのような「場所」「もの」「人」を思いつきましたか?

【小島】 今回の門司港地区の街巡りのガイドを引き受けた際、門司区役所で地域振興を担当する身としての 公的な組織人としての自分と、実際に門司港に暮らす一人の生活者である自分との間で、何をどの ように紹介すればよいのか正直迷いました。

前者であれば地域のポジティブとされている面を中心に訪問先をリストアップしていったことでしょう。 ガイドブックに載っていたりメディアで紹介されていたり何かと参照できる情報も多く「こう巡れば3時間くらいで主だったところは回れるよ」というようなコースの設定などは、ちょちょいとまとめて提示できたと思います。ただ、そういうコースで巡っても、それなりに楽しめ、学べるだろうと思う反面、建築を学ぶ皆さんにとっては随分と物足りないだろうなとも感じました。

一方、後者の目でこの街を見てみると、たとえ観光客が訪れるようなスポットであっても、個人的にはいちいち気にすることはありませんし、写真を撮るなんてこともありません。例えば門司港駅であれば(終着駅で櫛形にホームが並んでいるので)階段の昇り降りをしなくて楽だなとか、跳ね橋が上がっていると、船溜りをぐるっと遠回りしなくちゃいけないから不便だなとか、そんな捉え方ですね。こんな感じでどっちもどっちだなあと思ったのですが、後者の視点の方が自分にとってはリアルだし、皆さんいとってはある意味新鮮なのかなとちょっとずつ思いはじめ、訪問先を考えていきました。同時に、この春から区役所で仕事をしていくなかで、「門司港=レトロ」という図式というかイメージというか、近年は一般的にはそれがあまりにも強すぎて、レトロや観光のテイストに乗っからないものが置いてけぼりになっているような印象も持っていました。レトロ地区として市が整備を始めてからまだ10数年なのにというような違和感ですね。

実際には、関門エリアは千年以上の歴史があります。壇ノ浦の戦いで平家が滅び武家社会が始まり、 末の下関戦争で長州藩が攘夷を放棄し倒幕(武家社会の終焉)へと至るというような、国の在り方を 右するような歴史の舞台にもなった地域です。近代では軍事、港湾、鉄道の要衝という面も無視でき せんし、門司市から門司区(北九州市)になったということも門司港の街の姿を大きく変えてきた大 件です。欲張りですけど、このような歴史的な背景なども街歩きを通じて感じてもらいたいなとも思 ました。なお、デザインという切り口についてですが、私はデザインとは縁遠い立場ですし、その定義もよくわかりませんので、街なかにある形あるものは全てデザインされたものであるという都合の良い解釈をしました。まあ何でもありということですね(笑)

そういうことで、門司港駅~旧JR九州ビル~日本郵船ビル~門司港ホテル~跳ね橋~レトロ展望室(ハイマート)と歩き、そこからレンタルサイクルを利用し、UR清滝公団~門司区役所~清滝の路地~栄町のアーケード~小原市場(昼食・老舗肉屋のお弁当)~中央市場~東門司/畑田町界隈(パン屋さんや日銀支店長公舎跡など)~和布刈山上~関門橋下(早鞆の瀬戸)~旧門司(家具の工房)~西海岸(雑貨店など)というようなコースをイメージしました。

門司港の近代を体現するもの、レトロ事業により整備されたもの、門司港の雰囲気に惹かれ(他所からの)方々が生み出した魅力的なスペース、地元民がごく普通に利用する施設や店舗、寂れ果ててしまった場所、門司港の歴史や地勢的な特徴が感じられる場所などですね。なおUR清滝公団は毎日の徒歩通勤上にあるアパートで、海峡に向かってベランダが無くサンルーム的な窓が並んであって、さぞかし見晴らしがいいだろうな、こういう住居をリノベして暮らしたらたまらんだろうなと日々思うかなり個人的なセレクトです(笑)

【穴井】 今回は「地域振興をしていく公的な人の目線」、「実際にそこで暮らす人の目線」二つの視点 から門司港のご紹介していただいたことに私はとても意味があると思っています。というのも通常、地域振興は観光との関係はとても色濃く、両者は切ってもきれない関係です。

しかし、多くの地方自治体で行われている観光地開発などは制度的な部分と実態が乖離し、観光地自体特定されたエリア)がテーマパーク化するといった問題が国内でたくさん起こっています。そしてテーマパーク化した観光地は常に更新を余儀なくされ、補助金などが途切れた途端に衰退するといった問題がこれまでもたくさん起こってきました。その土地で行った地域振興の手法が根付いていなかったという証なのではないかと思います。

小島さんは公的な立場であり住民の立場で、まちにとっってこの両者を取り次ぐ立場でいらっしゃいます。先ほどのお話のなかにもあった跳ね橋(定刻になると橋が中央から分かれて渡れなくなる橋)の不便さなどはまさにそういった観光地的側面と暮らしの場の側面のジレンマが顕著に表れた部分ではないかと思います。

そして今回テーマを「デザインという切り口で見た門司港」と題しました。私自身も大学、大学院で 「デザイン」についての授業を現在まで受けてきましたが、未だにデザインという言葉の定義はできていません。笑

しかし、建築やデザインを専攻としていなかった友人にデザインという言葉のイメージを訪ねる「小 難しい事」であったり、「おしゃれなもの」「高級なもの」「便利なもの」「使いにくいもの」「派手なもの」など意見は様々ですが、どちらかというと少し身近な存在ではないようなものとして捉えられているのではないかと感じることがあります。

そのような背景のもと今回、あえて「デザイン」という言葉を切り口に小島さんに今回のツアーを投げかけ、どのような場所が候補地として挙がってくるのかを密かに期待していました。笑 つまり、公的な立場であり住民の立場である小島さんにとっての「門司港のデザイン」とは何かというものが今回のツアーで体験できたのだと思っています。

そして先ほど小島さんが仰られた「街なかにある形あるものは全てデザインされたものである」という定義は私にとってとても共感できるデザインの定義でした。私は都市の面白さはそこで暮らす人々が偶発的かつ恣意的に風土や暮らしに合わせて創意工夫しカスタマイズしていった結果、生成された部分であると思っています。それが各県や各地域で異なっていることが個々のブランドであり、良さであると思っています。情報化進んだ現在ではこの「差異」がまちづくりや都市計画にいて特に重要な視点なのではないかと考えています。

実際に門司港というエリアで生活をされてみてこのエリアは他の地域(北九州市内、市外を含め)どういった部分が同じ(似ていて)で、どういった部分が異なると感じていますか?

【小島】 現状の門司港レトロをどのように評価するかは人それぞれでしょうが、少なくともレトロ開発 が始まるはるか前から、この地域が豊かな歴史、文化、風土を有していたということのほうが重要な点であると思っています。この街には交易や軍事の要衝となることが半ば運命的に定められたかのような地理上の特性があります。また、近代港湾都市としての発展の歴史もあります。なぜ嘗て北九州地域を統括する日銀の支店が門司港に開設されていたのか、なぜ関門海峡を見下ろす和布刈山の山頂に本格的なミャンマー式の寺院があるのか、なぜ5市合併以降人口が減り続けているのか。このような過去の栄華、都市の中にある異質なもの、統計的にも表れる都市の現況などは、実際にこの地域で育ち暮らしてみないとなかなか実感できないものです。

このような都市の生い立ちのようなものをアカデミックに語ったものが「都市の文脈」などと言われるものになるのかな?それではレトロをテーマとした観光開発はその文脈上どのように位置づけられるものなのか、そこはまだちょっとクリアにはなっていません、個人的にですけど。一方で住民が自分たちの街に対して抱く感情のようなものについては、その街の現在のヴィジュアルなイメージ(=都市景観)が大きな影響を与えることに加え、その人が持つその街についての記憶もまた同様に大きなウエイトを占めるものであると思います。ただ一般的に記憶ってかなり主観的で都合が良くて気まぐれなものですから、そのような記憶が有する特性を踏まえれば、街に関する記憶についても、どれもが一様に平等なものという訳ではないということが言えそうです。

つまり人々が有する街の記憶にも「忘れたくない記憶」と「忘れたい記憶」という2つのパターンがあるのではないかと。レトロ事業で整備された門司港の繁栄と文化的な豊かさを物語る遺産は主に「忘れたくない記憶」ですね。そういう遺産をしっかりと守り後世に引き継いでいくことは、地域住民にとってもそれらが我が街の(甘美な)記憶の再生装置として機能することになり、十分に意義深いことであると思います。問題は「忘れたい記憶」の方で、どちらかというと、こちらは行政が苦手とする分野であるというのは何となく想像できるのではないでしょうか。

このなかなかスポットライトの当たらない「忘れたい記憶」についても、街をよくよく観察してみればいろんなところにその名残を発見することができるでしょう。いまある景観は、些細なエレメントも含め、清濁関係なく等しく街の記憶を保持しているからです。街の景色は、単に「見えるもの」と「見えないもの」とに二分されるものではなくて、「見ようという意思さえあれば見えてくるもの」という視点でも捉えることができるということです。この3つ目の視点は主にその街に住んだことのある人だけに与えられた特権ですね

これについては門司で生まれ育ったクリエイターの方々、例えば藤原新也さん(写真)、青山真治さん(映画)、平出隆さん(詩・小説)などが、どのようにこの街を描写、言及しているかなども参考になるかもしれません。今回の街歩きでは、できるだけこの第三の視点を意識しながら、他所から来た皆さんにもこのような住民の感覚を追体験してもらえるようプログラムしたつもりです。門司港在住歴6年の私が言うのもなんですが(笑)そういうわけですので、他都市や市内他地域との比較については、今回私が軸足を置いた門司港在住の住民としての立場から語ろうとすれば、どうしても私的なものとなりますので、正直「よく分かりません」、でも「とにかく門司港は素敵な場所ですよ」と言うほかありません。穴井さんの冒頭の指摘については、街の記憶の明と暗、忘れたくない記憶に光を当てるのが観光だとすれば、忘れたい記憶をも感じることのできる仕組みづくりが地域振興のひとつの理想的な姿かもしれません。跳ね橋が上がってて遠回りして家に帰らざるを得なかったという経験もゆくゆくは忘れたい記憶に連なっていくのでしょう(笑)

【穴井】 これから、私は建築設計や都市計画の実践の場に関わります。街の記憶の明と暗の両義的な視 点を理解しつつ、その土地でしかできない最適解のようなものを提案をできればと考えています。 ありがとうございました。

<プロフィール> 小島邦裕 門司区役所総務企画課在職 1974年生まれ。中学まで八幡東区で祖父母が営む銭湯にて育つ 平成9年北九州市入職、以降、市内企業の国際ビジネス支援、 国際機関日本アセアンセンター(出向)にてアセアンの家具・ 雑貨等の日本市場へのプロモーション、現代美術センターCC A北九州事務局などに在籍。 その他、若松区役所と門司区役所にて区の地域振興を担当。若 松では、若松南海岸通り(若松バンド)の振興、旧古河鉱業ビ ルの保存、設立期のビオトープ・ネットワーク研究会等の活動 等に携わる。本年4月より現職。門司港在住。


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